小保方問題と佐内問題が意味するもの

最近、めっきり少なくってきた小保方氏と佐内氏のニュース。
世間はそろそろ二人の事件には関心を失いつつあるようだ。
ここで、改めて二人が関連した事件の意味について考えてみたい。

まず第一に、二人が関連した事件の背景には、「コピー」と「オリジナル」の問題が隠されている。
現代では、デジタル技術の発達によって、あらゆるものが容易にコピーできる環境にある。
考えてみれば、われわれの身の回りにあるもの、例えば、テレビ番組、ファッション、アイドル、広告など、コピーされたものは莫大な数にのぼるだろう。

しかし、一昔と違う点は、それがコピーであるのか、そうでないのか見分けがつかないことである。
最近、ニュースになった3Dプリンタで作成された銃がいい例だろう。
あの銃は、あきらかにコピーされたまがいものなのだが、本物と同等の機能があるために警察から押収されることになった。
この例が示すように、もはやコピーは単なるコピーではなく、本物と同じ価値、もしくはそれ以上の価値があるものになっている。

小保方氏の論文の真偽はさておき、あの事件がこうした現代社会の高度なテクノロジーの発達の中で起こったことは忘れてはならないだろう。
偽の情報は、もはや本物と見分けるのが困難なほどに私たちの生活に入り込んでいる。

佐内氏の事件は、そのことを如実に示していたといえよう。
本人は作曲に関与せず、自らのイメージだけを提供し、他人と組んで音楽を販売する。
多くの人たちは、その真実に気づくことができなかった。

しかし、一方で、佐内氏の持っていたイメージブランドがコピーされた音楽は、たとえそれが偽造された情報があったにせよ、それなりに価値があったことは否定できない。
コピーされたものは、本物以上に価値を持つことができ、莫大な利益を生み出すことができるのだ。
問題は、私たちがどれだけその高度なコピー技術を寛容するべきかということになる。
どこまでテクノロジーの進化を認め、どこまで倫理的に許すべきなのか。

現代社会は、必然的に、今まで持っていた基準をゆるいものへと変えざるを得なくなるだろう。
だが、その明確な基準は、日に日に発達しているテクノロジーの進展を考えると、容易には定めることはできないように私には思える。

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